思考の遊戯・続

「雑読雑感」の管理人・レグルスの読書メモ、映画のネタバレ感想など

葺合ものがたり

葺合区役所相談課
☆☆☆★
葺合区役所

会社の地元の郷土史。昭和51年刊行。奇しくも私の生まれた年である。
小学校の社会の授業で、たしかこんな区があったのを思い出したくらい。現在は中央区に合併しているが、割と最近まであったんだなぁ。
応神天皇とか、なかば神話的な時代から名前が出てくるし、戦前てまは、春日野道商店街は、東の新開地とまでうたわれて賑わいだったという。

「烏原水源地が完成するのは38年で(略)水道の敷設された頃、神戸の裏山は丸はだかの状態であった。樹木の盗採る濫伐が維新前より引続いていたからである。
このため、いちと雨が降れば、平素一滴の水もないのに、川に水があふれ、土砂を押し流した。」
北区民からすると、神戸の裏山と言われると、六甲山の北側のことかと錯覚するが、この場合は、神戸市街の裏、つまりは北側で、六甲や摩耶山の南面を指す。

「錨山のいかりのマークは、植林事業のさ中の明治36年4月、神戸沖で観艦式のときに、また市章山の市章は40年9月神戸築港起工式のときに、それぞれのマーク状に植林されたものである。」

「これだけ建設したけれどもまだ足らずに、講堂、応接室、教員室を教室に宛てたあげくの果て、明治35年からは低学年の二部授業(クラスを午前組と午後組に分けての半日授業)(略)このじぶんの1校あたりの平均児童数は1300人、雲中のごときは二千人を越すマンモス校で、1クラスあたり80人というつめ込みぶりであった。これは結局第二次大戦まで解消しなかった。」

明治43年4月7日午前6時40分(略)脇浜沖に泊まっていた火薬船が大爆笑を起こした(略)もよりの脇浜、敏馬あたりは、さながら地震の跡のように惨たんたる有様で、葺合のほとんどの家が、戸障子がはずれ、窓ガラスが壊れるなどの被害を受けた。東須磨でさえ戸障子がはずれた家があるほどで、爆発音が姫路まで聞こえたという。(略)船の乗組員3人は死亡し、陸では幸い死者はなかったが、負傷者130人間、被災家屋千百余戸の大事故であった。」
神戸の地理に詳しい人なら、その凄まじさが分かるであろう。

「昭和(略)8年6月に(略)できた三宮駅は、地下駅としては日本一と評判であった。ホームの長さ120メートル、ゆうゆう八両連結が入れられ、エレベーターからエスカレーターまで備えていた。」

「阪急が六甲山にロープウェイをつけると、阪神もケーブルカーをつけて対抗する。阪神が球団を結成すると、おくれじと阪急もこれに続く。(略)おかげで、京阪神近郊の郊外電車は、日本一の折紙がつくようになった。」