思考の遊戯・続

「雑読雑感」の管理人・レグルスの読書メモ、映画のネタバレ感想など

シン・エヴァ

モロにネタバレなのでご注意!



☆☆☆☆★

一通りの伏線は怪獣されており、なおかつ前向きに終わっている。本来はこれ、テレビシリーズの最終回でやっておくべき内容でしょ?
シンジが旧劇場版以上にどん底になるのは、その後、より感情を上げる為の反動として必要だろうが、ちょっと長すぎが。絶望して無力になった主人公が、農村の素朴な生活の中で復活する、という展開はジェット・リーカンフー映画『スピリット』と全く同じ。これ指摘してる人はいないなぁ……。
冒頭のパリでは、『キャシャーン』のアンドロ軍団のパロディが。エッフェル塔を刺して使徒ネルフエヴァ?)がやられるのは弱すぎちゃう?
綾波が消えるのは誰でも予感できるが、頭が液化して吹っ飛ぶかっとは衝撃で、ここで初めて観て良かったと思った(^^;)
アスカがシンジに食わせるレーション、包装を見ると2300だか500だかカロリーとあった。まさに一日分の分のカロリーが摂れる。
いろんな解説動画の中で一番役に立ったのは、岡田斗司夫の「マリ=安野モヨコ」という指摘。『破』から大きな顔をして出てきて、今回も戦闘シーンでは出ずっぱり。おまけち最後にはレイやアスカを差し置いてシンジとくっつくなんて、「あんた誰?(´Д`)」という感じだったのだが、Q劇場版当時にはいなかった、庵野監督の嫁さんだと分かれば、すべて納得だ。
クライマックスのヴンダーと同型艦のバトル、という最高に燃えるシーンで、『惑星大戦争』の轟天のテーマが流れる。もちろん、ニュー・ノーチラス号のテーマの元ネタなのだが、『破』で編曲したバージョンではなく、原曲の、ある種古臭い、間抜けな感じに、ドン引きしてしまった。『シン・ゴジラ』の『宇宙大戦争マーチ』と全く同じパターンだ。これ以外にも、本作での音楽の使い方は、どれも妙に気取ってるとか、毎回現実に引き戻されるという、劇伴本来の意図と逆の効果をもたらされた。好みの問題をだろうが、少なくとも、このクライマックスのずうずうしさには客観的にも違和感が否めないだろう。
ゲンドウとリツコの対立は『ナディア』のネモとエレクトラだということを始め、本作は過去の庵野作品の総決算、あるいはセルフオマージュ満載と言える。
全ての元凶たる、ゲンドウの目的と動機は、庵野監督じしんの半生としか解釈できない、長過ぎる独白で明らかになる。これ、完全にセカイ系。普通のマンガ/アニメでは、こじらせた主人公を救うのは、子供じゃなくて友人か親だよねぇ……(´Д`)
カヲルの正体がゲンドウの分身だ、というのがこの新劇場版で最大のどんでん返しかも。ってことは、シンジ=ゲンドウ=カヲル、の三位一体って、連城三紀彦かよっ?! あ、キリスト教モチーフだから、これはアリなのか。
ラストでは、旧劇場版やテレビシリーズも含めた決着という落とし前、あるいは上書きがなされる。知らないが、ゲームやマンガ版にも触れているらしい。
過去のもやもや結末を全て上書きして、文字通り時計の針を進めてシンジたちは肉体的にも成長し、実写世界へと歩き去って行く。正しく虚構から現実へ。エヴァという夢の終わりである。

改めて、何故、特に新劇場版に乗れなかったのは何故か。シンジがハーレム状態でモテモテだから(^^;) 綾波、アスカ、カヲルと、周りの女子(一部男だが)に軒並み好かれてる。それで何が不満やねん? と思うわけだ。さらに改めて『エヴァ』という作品を考えると、シンジという少年が、父親に振り向いてもらいたい、という物語だったと分かる。
庵野作品を総括して見ると、『トップ』といい、『ナディア』といい、この『エヴァ』といい、主人公と絡むのは父親ばかりで、母親は写真以外に実際に出てきたことがないのだ。まさにエディプス・コンプレックス以外の何者でもない。そういや、ゲンドウの父親との関係には触れてなかったけど。