思考の遊戯・続

「雑読雑感」の管理人・レグルスの読書メモ、映画のネタバレ感想など

新世紀エヴァンゲリオン Airまごころを、君に』☆☆☆☆

『シンエヴァ』後、初めてだったかな? テレビシリーズ再見後は初めてだったかな? どちらにしても、ようやく、言いたいことが理解できた気がする(^_^;) その辺は最後に書くことにする。
個人的な好き嫌いの問題。
アスカの声が嫌い。舌足らずというか、幼いというか。2号機で大暴れするところも、過剰に三白眼にしているとしか思えない。攻撃ヘリを叩き落とすところも、アクションとしては格好いい殺陣だが、飛び道具を使うヘリがあんなに接近する必要ないやん?! この辺は、東宝特撮怪獣映画のオマージュなのかもしれないけど。
ミサトの演技は、テレビシリーズ序盤の空元気の時より普通に聴ける物だが、本作序盤の「死ね」から「生きろ」に変わることに加え、現場の切迫感から浮いた説教臭さが鼻につく。この辺は、監督の本作のテーマというか、観客に向けて直接的に示す必要があったからなのかもしれないが。
実は、ミサトが死ぬところからレイの霊が出現してたんやね。本作において、レイは死神というか、魂の回収係として大活躍している。
後、今回見返して驚いたのが、『シンエヴァ』で初登場したと思っていたゲンドウ=カヲル説が、本作でしっかり描かれていた事。ただし、何の説明もなく、映像として数秒描かれただけだから、どう考えてもわかるわけねぇ! というレベルだが。

で、本題の本作のメインテーマとしての「人類補完計画」の実行についての考察(今更も今更だけど)。
「シンジの欠けた自我を以って、人類の魂を1つにする」というもの。エヴァンゲリオン初号機9体プラス、初号機、2号機、零号機の代わりのアダムという、キリストの12使徒をモチーフにした12体のエヴァと、シンジという(自我の欠けた)人間が融合することによって、それを生さしめる、というのが本作の設定。
最後にシンジが自らの魂もLCLの海に溶け込むことを望まなかったから、実行はキャンセルされたわけだが、そもそもファイナルアンサーを聞いてから実行・発動されるもんだから、その前に全人類の魂が吸い出されたのは、死神レイのフライングもいいところでしょ? ま、どんな計画なのか描かなかったテレビ版で、皆が納得しなかったので、描かざるをえなかったわけで、その辺はギリギリの嘘の範囲内、というところか。
その辺で延々と描かれる抽象的というか、初見では意味不明な幼少期のシンジの公演だか舞台だかの一人遊び、女性声優の実写からの、風景、劇場とエヴァファンの観客など。みんなが好きになっているレイ、アスカ、ミサトも声優という生身の人間が声を当てているに過ぎない。エヴァという架空のフィクションではなく、現実を見ろ、というメッセージか。
で、みんなの魂が融合することを拒否してキャンセルされた人類補完計画だが、いざ、他人を目に前にして、やりかけたアスカに向き合うことは、すなわち融合時に見ていたアスカの首を絞めていたこと、やりかけていてやりきれなかったことの続きなのか。あれは幻だが、実際に他人の肉体に向き合い、半分幻であったレイの手をとった手で、アスカの首を絞めてみると、そこには肉体的、精神的な反発・拒否反応がある。
「好きだ」と言っても「嫌い」と言われる、それこそが現実だということか。冒頭に「5人の女性に捧げる」とあったのは、庵野監督を降った女性、すなわち自らの失恋経験を元に描いたもの、ということか。そんなの言われないと分からないけど。
最近の映画なら、エンドクレジットの後につくような性質のエピローグである。
これ、初見時はもちろん、何回見てもバッドエンドにしか見えなかったのだけど、今回、こんな感じで読み解いてみると、もしかしたらハッピーエンドとは言わないまでも、バッドエンドとは言えないのではないか? と感じた。
二次元に対して「俺の嫁」とか言っても(妄想で会話が成立するところまで行っちゃってる人たちは別にして)、現実の人間は、ちゃんとリアクションを返してくれるではないか。それが良いものであればいいが、真面目に突き詰めれば、そういう人たちが、そういう心根でぶつかれば、リアクションは「気持ち悪い」となる。もちろん、あそこでアスカがLCLの海でのレイのように「私もシンジがいないとダメなの」的に抱きつくラストも考えられたわけだが、二人がお互いの内面を見た後では、神や仏ならぬ人間では、拒否されるという結果になるのが誠実な作劇ではないか。