思考の遊戯・続

「雑読雑感」の管理人・レグルスの読書メモ、映画のネタバレ感想など

『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』斉藤光政
☆☆☆☆
集英社文庫

なぜ安彦良和がこんな本のカバーを描いてるのか? と不思議だったが、著者によるあとがきによると、安彦良和の『原点』は斉藤氏との共著だった。
東日流外三郡誌』は「つがるそとさんぐんし」と読み、『竜の柩』など、超古代史(これはだいぶ古代、という意味意外に、トンデモ古代史という意味も含む)好きにはお馴染みの本。
当時も「ほんとかいな?」と半信半疑だったが、これが偽書であることは、現在ではほぼ常識だろう。
その一部始終というか、とある資料の盗用裁判の取材に端を発して、現地で詐欺師周辺の取材を行なっていたのが地方新聞「東奥日報」(まるで歴史推理小説の架空新聞みたいな名前だが、とうぜん実在)の記者である著者だ。
てっきり本書は『東日流外三郡誌』のどこに瑕疵があり、手がかりをつなぎ合わせ、証言者を探し歩いて、証拠を突きつける……といったノンフィクションの歴史ミステリーだと思っていたのだが……。
なんと最初の50ページくらいで、真っ赤な偽物であることは、読者には明らかになるのだ。では、残りの400ページあまりには何があるのかというと、偽書騒ぎの顛末。
かといって、詐欺師張本人の和田喜八郎とのやりとりがあるのかという、たった一度だけ。後は取材者からの伝聞のみ。そもそも、「犯人」である和田のアップすらないのだ。このことから、本書は大騒動の犯人を糾弾するのではなく、社会現象・社会問題となった現象を新聞記者らしい、客観的な視点からまとめたもの、といえる。
ちなみに、本書は2003年に「和田文書」が落ちてきた家が壊され、最初の単行本がでた06年、09年に文庫化、18年にこの集英社文庫版、とそれぞれに詳しいあとがきが追記されているので、その後の経緯や、オウム真理教への影響まで含めて、実に詳しい。その反動か、本文庫への解説が、なかなか見ないくらい内容のないもの(よく言えば裏表紙の内容紹介レベル)になっている(´д`)

「現代人が歴史の本や論文などからいろいろな話をピックアップし、それに手を加えて都合よくまとめた創作物、それが外三郡誌をはじめとする和田家文書の実態」

「外三郡誌への疑念は(引用者注:最初に外三郡誌を紹介した「市浦村史資料編)編集作業時からすでにあって、それを承知であえて出版に踏み切ったというのである。すべての作業を税金で賄っているはずの公共機関が、である。」

市浦村ではだれも和田さんを相手にしなくなったので、単純に収入源を確保するため、外三郡誌のルーツを市浦村から石ノ塔にシフトした」
石ノ塔とは、『竜の柩』にも出てきた石塔山荒覇吐神社(アラハバキ)のこと。

「和田さんは財宝や埋蔵金詐欺の常習者なんです。”自分は埋蔵金の地図と裏付けになる文書を持っている””代わりに掘ってやるからその資金を出せ”といった具合に、繰り返しあちこちから金を集めています。その埋蔵金の地図や由来書がだんだん膨らんで出来上がったものが外三郡誌の正体なんですね。市浦村役場もそれに引っかかったあげくに、そのつじつま合わせとして村史編纂予算を組み、和田から預かった”古文書”を刊行することにした」
これが外三郡誌事件の顛末の全てと言っていい。これが書かれているのが199ページ(^_^;)

「和田家文書の作者が愛用するのは(略)市販されているごくありふれた筆ペンを使って殴り書きしているんです。」

「なぜわれわれが外三郡誌問題に取り組んでこなかったのか? その答えは簡単です。学問として取り組むに値しないものだったからです。(略)日本中世史を専門とする研究者が言った。」

邪馬台国の秘密』で外三郡誌の擁護推進者の先鋒である古田に因縁をつけられた高木彬光
「古田を「古代史ゴロ」と表現し、「古代史に詐話のタネを求め、真実には目をとざして、独断を押し売りしている学匪」と切って捨てる。

「和田さんに古文書の作り方を教えたのは、津軽地方のT(故人)です。古い煤を溶かした水に和紙を漬け込んで乾かし、その紙に文字を書き込めば一丁上がりです。煤は茅葺き屋根についている百年以上昔の古いものを使うんです。そうすることで、炭素年代測定にかけても古い数値しか出ない(略)。
 墨文字を古く見せるには、文字の上に塩をかけます。塩は水分を吸い取りますからね。そのうえで、紙や布でふくと文字をこすれてわかりづらくなり、時間を経た古物のように見えるという仕組みです。これらは古物商の間ではごくあたり前の知識」
この辺は贋作探偵もので出てきそうなトリックだ。

「”石塔山で安東時代の仏像や歴史的な物が見つかった””市浦村の歴史が変わる”と和田さんから聞いたのは1971年のことです。なんとしても、和田さんが持っている外三郡誌の写しがほしかったので、頼み込むと”コピーなら出してもいい”との返事でした。そこで早速、村史編纂委員会としてコピーを入手することにしたんです。入手方法は、和田さんから少しずつ文書を渡してもらい、それを複写して返すというものでした。コピー1回ごとに和田さんからお金を取られ、全部コピーするのに何百万もかかりました。」